Q – N°2

最近友達の描いているキャラクターの名前でツイート検索したことがあった。そしたらたくさんの人がそのキャラクター名で「かわいい」とか「フィギュアほしい」とかツイートしていたり、写真をアップしていたりして、僕はそれを眺めていてとてもいい気分だった。今は過去のツイートまで全部検索できるから、2010年のツイートまで遡っていったら、同じくフォローしているイラストを描く人とその友達の会話が出てきた。

そうかこの2人はこんなにも前から知り合いだったのか。その会話には今よりももっと仰々しくぎこちない会話があって、なんだかウフフとなった。2人はお互いのイラストについてアレコレと会話していた。あぁ、僕にもこんな瞬間って新しい人にインターネットで出会うと時々あって、そしてその瞬間って何にも変えがたい高揚があるよな。そんなことを考えていた。

誰しもフォローしている人って、いくつかのレイヤーに分かれているはず。いつどんなキッカケでその人をフォローしたのかから始まり、今の関係になるまでいくつかのステップというか段階を経ていると思う。僕は情報を得る目的でフォローしているアカウントがなくて会話するか一方的に好きかそれくらいの範囲でしか関わらない(というかそれくらいになるように一度整理した)ので、ひとつひとつのアカウントに対してそういうことを考えることをしたり、まだそういう関係になれない人でもそうなれたらいいなと思いながら続けている。フォローしている人皆に会うって考えたとしても案外不可能じゃないとも思っている。

いろんなステップがあると言ったけれど、僕が一番面白いと感じたのはやはり最初にもあげた初めてリプライを飛ばし合った瞬間だと思う。対象がどんな人でもどんな年齢でもそれは同じ。なんでだろう。それはやっぱりある程度のハードルがあると誰もが感じているからだと思う。ここで対象にしているのはリアルではまだ会ったことのない場合が多い。

そもそもその前提としてフォローするタイミングを考える。どのような経緯、周りとの共通の関係、年齢、性別、地域、いろんな要素が絡み合ってインターネットの中から偶然なのか引き合うようになのかフォローが始まる。僕の場合は、ブログ見たとか。最近多いのは普段会話している人の知り合いから「よく会話してるの見てて誰なんだろうと思ってました」ってもの多い。フォローしてみたら実は相手も知っていたので一瞬でフォローが返ってくる時はだいたいそう。で、これがまず第一段階だとする。

そしてフォローしたらそのキッカケのまま会話をすることもある。はじめましてってな具合に。この場合は一気に関係をもう一段階先に進めた感じがある。まぁでもこれはこれで。

でもだいたいはフォローした後に関係として潜伏期間が続く。この人の普段考えていること、よく一緒に行動している人。学生?デザイン系?いろんなその人の要素を自分の普段の付き合いをその人にも晒しながら平行して気にしたり。もちろん全員がそう気になるってことでもない。もしかしたら、最初からそういう風に気になる人たちは最終的に引き合う力があって、ただ時間の問題なのかもしれないとさえ最近は思う。

そんな潜伏期間から僕らはどんな風に次に進むんだろうか。思い出せる時もあるし、思い出せない時もある。でも全部覚えておきたいと最近強く思う。

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この前、こんなひとつのやりとりがあったんだけど、Que™さんとリサちゃんとこういうことをできる関係にいつからなったんだろうとぼんやり考えた。これだけに限ったことではない。いつからこの子は僕に対してタメ口とかッスカ敬語になっているんだろうカワイイなとか、普段あまりツイートしない人が僕の名前を呼んだとか。そんな些細な事は毎日のようにいろんな形で起こっていて、だからこういったひとつの流れが絶え間なく起きては忘れの繰り返しになりそうんだけど、ある程度というか出来るなら全部覚えておきたいと僕は思う。
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多分その潜伏期間の中で僕たちはふぉぼり合ったり、RTし合ったり、共通の知り合いと別のタイミングで会話して「あぁ、この人とも知り合いなのか」とやきもきしたり、そんなことを繰り返すと思う。恋に恋するとはまさにこのことだと思う。潜伏期間って楽しいのでは。いやそこまで意識することはそんなにないかもしれないけど。でも例えばフォローしてる人と同じくフォローしてる知り合いが自分の知らない所で知り合い同士になっていることを会話をTLで見て知るってことは案外日常的にあって、それをハカハカした気持ちで見ることしかできないこととか、きっと誰もが体験したことがあると思う。その会話をふぉぼって見てますよって意識させたり、でもそんなのも無力の抵抗だったり。

そしてついにその潜伏期間にも皮を破って新たな展開を迎える時がやってくる。初めてリプライを送る時。長文すぎず重たすぎず、でも今まで自分が見てきたよって情報をいかに上手く伝えるか。アレ見ましたコレ見ました、どこまで詰め込む?そんなことを考えながら送ったら案外相手も同じくらいの熱量で返してきたりする。あぁ同じくらい引き合っていたのかと。何を作って公開していたりするとアレとてもいいですとかいつも見てますとか必要以上に言ってしまって「あぁ媚びてる感じ出ちゃったかもしれない」とか。そして、そのやり取りをもしかしたら自分のフォロワーがまたどこかで見て昨日までの自分と同じやきもきを味わっているのかもしれない。そうやってリプライ処女を皆捨てていく。

今日またいつものやり取りをする人たちとのファーストコンタクトをいつまでも忘れたくないし、でも今はあの時とは違う関係になったからできる会話の種類や形態があると思う。馴れ馴れしさと初々しさと残しておきたいことと忘れたくないことと、インターネットのどこかにその記述は残っているはずなんだけど、探したりはしない。残っていることだけが分かればいいはず。


add on 2014.12.24

今Twitterのメッセージのインボックスを見たら、メッセージも直近のものだけでなく過去のもの全てが見れるようになっていた。ザッと見てみて、なんだかもの悲しい感じがあった。懐かしむ気分にはとてもなれないというか。理由は分かる。思い入れが強かったからだろう。そのやり取りに対しても、その人たちに対しても。こんな機能の発達とそれについての虚しさを何も今日気付かなくてもいいだろうと思いつつ。

やり取りをしていた彼ら彼女らのうち、半分以上はもう連絡も取っていないし動向も追っていない。そのまた何割かはフォローも外してしまっている。メッセージをメール的な感覚で使っている人ならそういうこともないのかもしれないけれど、いまだに自分の中では一線を越えたやり取りな気がしている。多くの場合、会ったことのない人と初めて会う時にそれは用いられていたので、高揚と不安がそのやり取りにはあって、ありきたりなものをありきたりじゃなくさせてくれていた。

上に昔書いたような、初めての会話から、数時間、数週間、あるいは何年も待って、インターネットだけのやり取りから解放してくれる術として、僕はそれを大切にしていたんだと分かった。だからこそ、それを超えてしまった後の人の半数以上が現在では自分にとってまたありきたりな存在になってしまっていて、そうさせてしまっていて。そして、それが自分のしたことだという実感が、なんだかとても納得できる。会ったことがないのに知っていることが沢山あって、でも会ってみて何も知らんかったことにようやく気付いて、そしてなんだか嫌になってしまう。何が嫌になったのかもあまり分からないまま。

だから、社会人になってからは同業者として興味があるという人ではなく、単に人としての魅力を感じて誰か新しい人に会うということはほぼしていない。昔2年前くらいに、「TwitterやTumblrをずっと追ってしまう自分がいるけど、それは君のこと何も知らかったからだ。話してみて何も知らないことに気付いて、でもそう思った時には知る方法がネットで追うことくらいしかできなかった」と言われたことがあった。言われたというか、それもメッセージだったけど。それを言われて以降、自分も興味を持った相手に対いては、男だろうと女だろうと、それくらいの実力行使しかできないし、できないような構造の中で、知り合ったり別れたり、フォローしたりリムーブしたり、そんなことをやっているんだと興ざめした時があった。まぁそれが学生の最後だったので、そのことで新しい人に会うのが面倒になったのかもしれないと今は思う。
今年一年なにか印象的なことはあったかと訊かれたことが最近あったが、なかったと答えた。去年同じことを訊かれても同じ答えだと思う。今は生活の中心がもちろん仕事なので、仕事での達成感を経験していないということが大きな原因なんだろうけど。でも2年前だったら違ったと思う。

昔と今を比べたら、当然今の方が好きだし、自分のこともこの2年間で新たに知ることが増えた。経験したことのない過酷な状況になった時、見積もっていたよりも自分がタフだったり、逆にすごくめんどくさいヤツだと気付いたり。知れば知るほど、知りたいと思うのは自分自身だけなんじゃないかと思ったりもする。しないけど。