defric

小さい頃、障子の敷居の溝を(何故か)指で擦っていたら、木のささくれが奥深く刺さって、近くの病院の手術台に乗せられてピンセットで取り除かれるところまで発展したことがある。あのパンッと破裂するように手術台の照明を浴びる感覚、人生のうちで出来るだけ味わいたくはないと思った。指に刺さったささくれ一本で人は簡単にうろたえてしまう。

「あ、はい」「え〜と」「なんか」という言葉の不要なつまりみたいなものが、どうしようもなく気になりだして全く話が入ってこないということがあると思う。多分あれもささくれ。

だけど、そういう何か詰まったり心がざわつくものがない、ツルツルのものがどうも気持ちよく設計されすぎていることにも、最近違和感を覚えるようにもなっている。摩擦ゼロで受け入れられる事への疑問というか。「デザイン」をとってみても、視覚表現でなく設計という意味合いに寄った場合ではどうも(というか当然というか)そのささくれや摩擦というものを出来るだけなくすように努めがちだ。内容が優先した通りに理解できるとか、コンセプトを上手く言い表しているとか。自分に湧く疑問とは、そういう訓練をずっとしてきたことへの単なる反動なんだろうか。

例えば。平野敬子氏のエンブレムに関するブログを読んでいた時期があって、自分はその時から氏のデザインのアウトプットを意識して見ていたのだが、究極の普通の中にある心理がみたいなものがあるんだろうなということを思ったのを覚えている。もちろん、それが単にありきたりだとか地味とか、そういうことじゃないのは前提として理解してもらいたいんだが、目にした全てのものが完璧に設計されていて違和感の猶予もなく手に取れてしまうことが、どうも今の自分の中で上手く消化できていない問題としてある。