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手段が目的化したグラフィック

2020.10.10

課題解決やユーザー体験などの大義名分に囚われないグラフィックデザインを謳歌することができる条件なら、たとえ手段が目的化してしまっても別に構わないと私は考える。プログラム・3DCG・映像・イラスト・ウェブという手法と融合する機会のためにあるグラフィックデザインも私の持つひとつの理想だ。今回もメソッドよりも感想文多めになったが、一人称の制作話をもっと意識的に広めたいのでご容赦ください。


プログラム: Beyond Interaction (2020), Digital Choc (2016)

Design: me / openFrameworks: kynd / WebGL: me

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openFrameworks参考書の装丁なのでopenFrameworksで作ったビジュアルのあるデザインをというオーダー。メディアアーティスト米田研一さん(kynd)が迷彩柄のビジュアルを生成。カバーを外した表紙の同じ部分には迷彩を作るプログラムの構造を図式化し、さらにデカールのようにグラフィック要素としてまとめた。

最初に米田さんの過去のopenFrameworks作品の中から自分で勝手に選んでコラージュのようにラフ案を共有し、可能性があった迷彩案を新しい形で大量に出してもらった。そして配色を絞りまた大量に生成しセレクトという流れ。このプロセスで感じたプログラム+グラフィックの醍醐味は量が質を担保することだった。

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ところで、Processingやvvvvも含め視覚的表現が得意で扱いやすいプログラミング言語はあるが、それらが静止画アウトプットの単体表現として実用的かというと個人的には疑問がある。もちろんこれら言語は本来リアルタイムやインタラクションという要素込みでの評価をされるべきだし、そのコンセプトやジェネラティブコミュニティにある「グラフィックたりえる基準」としても、昔からあるポスターグラフィックの感性とは独立したジャンルなのだと思う。そのギャップこそが、手段が目的化した制作のチャンスであるし、以下のようにグラフィックを作る自分自身でプログラムも挑戦するというのもありなのかと。

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WebGLで作った凹凸のテクスチャに背景パターンと文字それぞれを適応して出来たパーツを組み合わせたグラフィック。もちろん同じ表現は3DCGでも可能であるしより高密度な設定ができるだろうが、自分でプログラムを書く場合の利点はプロトタイプとしての手軽さだ。

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前述したように全プロセスがプログラムによる静止画グラフィックにはまだ懐疑的である。だからこそ完全な状態を求めたり別ものとして扱うのではなく、プログラミングのランダム性・再帰性を表現の補助的役割として使うのが私の理想である。安定してその良さを発揮できるのは、今回の例や下記の事例のように、背景・テクスチャ生成としての用途だろう。

Processingなどの言語は「デザインオペレーティングスキルが高くなくても代用品として使えるツール(有り体に言うノンデザイナーズ・デザイン)」であることを強調されることが多い。しかしどちらかというと私が推したいのは、デザイナーがプログラミング言語の恩恵をグラフィック表現に活かすノンプログラマーズ・プログラミングなコンセプトだ。

そこには高度な知識や汎用的なコード美学は必須ではなく、サンプルコードのコピペを繰り返しながら出来たものでも良い。何かの言語を、Adobeのアクションを使うような感覚でライトに使い、文字詰めをするような感覚でパラメーターを調整するという選択肢があっても良いのではないか。


3DCG: VRDG#2 (2016), Hive_InBlue (2016)

Direction, Design: me / CGI: Motonori SuzukiShota Oga

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ゲームグラフィックの世界観を目指して作ったポスター。同じモデリングをアングル・ライティング・テクスチャなどを変えることでふたつの相対するビジュアルにした。3DCGの利点はこのバリエーションの展開にあると思う。

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展開は静止画にとどまらない。本格的なモーションやカメラワークを施さずとも、ライティングやアングルなど(レンダリング時間さえ確保できれば)比較的少ないコストと工夫で映像としても転換できる可能性が他分野より高い。もちろんそういったシンプルな構成にするには向き不向きがあり、ホログラフィック投影施設でのライブであった当案件では、設備と3D表現との親和性、幕間映像という役割がその条件として最適だった。

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3DCGにおいて留意すべきは、そのプロセスや構造の詳細理解に限界があるデザイナーとして、CGデザイナーに寄り添った時間の感覚を可能な限り持つこと。このこと自体は全ての共作関係にも言えるのだが、特にCGディレクションではレンダリング時間の概念を常に考慮しないと、ひとつの伝達ロスが十数時間の損失になってしまうこともある。コミュニケーションが大事と言えばそれまでだが「グラフィックデザイナーとして見極めたい部分と、CGデザイナーとして注力したい部分が、常に同じとは限らない」という前提はとても重要。

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作業段階のレンダリング結果と同時にモデリングごとのアルファマップを出してもらい、CGデザイナーが他の詰め作業をしている間にそのアルファを使いクライアントと細かい色彩の合意を進めた。

ディレクションをしながらデザインもする役回りとなると、文字組みとCGの間合い、色彩など細かい部分と全体での工数感覚を持ち合わせながら、最善でなくても次善の着地をとることもあるだろう。私にとってのアートディレクション+グラフィックデザインとは、そういったリスクヘッジを根底にした表現だと思っているが、3DCGとの共作はそれが一番顕著な事例かもしれない。


イラスト: VRDG#3 (2016), BRDG#7 (2016)

Direction, Design, Development: me / Illustration: Takahiro Tanaka, Kazuo

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メカデザインとクリーチャーデザインを主軸に、スペック情報や小物アイテムで補強しながらポスター・ウェブサイトを作成。ただ本来彼らの主戦場は、田中寛崇さんはミステリー小説の装画や女性と建築物を軸とした風景画、かずお君はポップなイラスト・アニメーションと音楽の連携である。

最も広く事例が存在するイラスト分野で概して記す利点はないのだが、当案件からイラストの可能性を改めて考えるとすれば、題材選定における技術的な障壁はプログラムや3DCGのよりも低いため、主戦場としている題材ではなくともディレクションに勝算があれば機能するということではないか。

プログラムのような再帰性や3DCGのような効率のよい展開力があることはデジタル・アナログのイラスト問わず稀である。一方でイラストレーターの「想像をそのまま具現化する力」というのは計り知れないといつも思わされる。特にメインの軸が決まった後の周りを地固めする段階で、私はその力の指数関数的な勢いをよく感じる。ノッてるなというやつ。ポスターのバリエーションやウェブのボディー部分のパーツ絵などを作る段階ではそれが顕著のため、イラストレーターの勢いを途切れさせない事が、メインイラストの構想段階以上に重要だと感じた。

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××用に○○を描いて欲しい⇔◎◎を描いてみたがどうだろうか⇔それなら△△を使って印刷・実装ができそうなので▲▲に調整してほしい⇔...

例えばこんなラリーは平凡な一幕だが、⇔の全てに技術検証や複数人の合意形成が必要だとリズムは大きく減退する気がする。単純な打開策はイラスト以外の要素を全部一人で担当することだろう。。とにかくどんな布陣でも3DCGのレンダリング工数の件とは違った刹那的な潮目をみる力が最低限全員に必要であろう。


ステ振り

デザイナーとして独立した時に自分の特性について考えた。自身の技術についてもだが、まずどの他分野と共作関係を築きたいかも私には重要であった。例えばイラストもそのひとつであったが、3DCGは事例的にまだ大多数ではないので自分の選択肢にあれば心強いと感じた。結果的に他のデザイナーからの差別化になったかもしれないが、純粋な興味に端を発したことだ。

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それに加えその手法に対する一定の課題意識も必要だと感じる。例えばジェネラティブアート・3DCG・イラスト(ここでは同人冊子など)の各手法を用いたデザインアウトプットには特有のテイストが一定量見られる。それが様式美なのか形骸化なのか判断は難しい(自分としても、その「◎◎っぽさ」という所を結局一度はやってみたい気持ちと、あまりコミュニティ文脈に寄りすぎないものをしたいという気持ちのどちらもある)

なんにしても各エキスパートと共作する時にフラット(というか外野)な立場から自分が新しく変化を加えられる部分はどこにあるのか、そしてそれを考えると特性のステ振り先は見えてくるように思う。


P.S. フライヤー

そもそも手段が目的化した最たる例が、今回掲載した中にもあるイベントのフライヤー文化ではなかろうか。だが冒頭にも書いたように、その逆転現象の中でしか許容できないトライアンドエラーがあり、そこで得る知見とパートナーシップこそ最大の収穫と目的な気もする。

最後に私が近年で一番気に入っているスケブリ氏のフライヤーとジャケットデザインを紹介したい。今回は写真分野について触れなかったが「写真撮影は独自にするもの」という割とハマりやすい行為の目的化に陥るとこの柔軟さは生まれないし、逆にストックフォトを使うという手法が先立っていたとしたら、それは今回書いたような精神につながる考え方で共感できる。