集団で牛丼食べる

日本デザインセンターのパンフレットにあったグラフィックエレメント。
「個性の集団による集団の個性」を表しているらしい。
何人かデザインセンターで知っている人はいるけれど、個人活動も活発にしている印象がある。個人的な活動なのかもしくは所属をあまり感じないような、個が立っているような、という印象。確か会社的にもなんかそういうのを推奨していて、その個性が会社に還元されて会社の新しい領域や顔や特徴になるみたいなことだった気がする。そうすると個性の集団による集団の個性という言葉がしっくりくるようにも思えてくる。

例えばそれが会社だったというだけで「集団」という言葉はいろんな意味で当てはまる。例えば国籍。例えば性別。例えばクラスター。例えばそれは世代でも当てはまる。世代の中での個性がその世代の個性になる。なるほど、個と集団は常に受容と供給の関係にあるのか。どんなことだっていいんだけど、自分がやることがあったとして、それはもちろん自分の見え方を固めていく。でも自分がやったことがあって、それはひとり離れ小島でいては意味がないのでは。その先のことまで考えてみたい。このグラフィックを見て考えさせれることは大きい。

自分がやることが他者にどのような影響を与えるんだろうか。もしくは集団としての世代の個性にどんな影響を与えるんだろうか。そういうことをもっと考えていないと、ただ何かして次は何をしようという繰り返しになっていくのではないかと、この形を見ているうちになる。実際に、自分のモチベーションが何かというと大部分にしてそういった他の個の余波を受けていることも知っている。何かにのめり込む時、何かに熱中できる時、それに勢いをつけるものとはなんだろう。いちばん熱量を持たせてくれるものとはなんだろう。それは自分から自発的に生まれることは僕はそんなになかった。人がやっているからそうしなきゃとか、人がやっていないからやってみたいとか、そればかりだった気がする。それは世代という集団の持つ見えない力であるし、集団の個性であるし、それを作るのが個性の集団なんじゃないか。

時にはその世代も他の世代に対しては個としてはたらく。自分たちは他の世代に対してどう写っているんだろう。社会に出て面白いなと思うのは、自分たちの価値観が自分たちのものだけのものだったと思い知らされることがよくあることだ。価値観が異なった時、単に上の世代に反抗して、その結果今度は下の世代に反抗されてしまったというのではダメだし、もしかしたら10年も生まれた時が違うなら受け入れられない価値観があって当然で、だからこそ逆に世代を越えて共有できる価値観とはなんだろうかということも考え出す。そしてまた立ち返って自分たちのこと、その中での自分のことを考える。

結局、だからといって何かが変わるとか変えようととかになるわけでもないんだけど、自分のポジションが分かっていることはやっぱり大切だ。ポジショニングとバランスとタイミングがものごとの全てだと思っているんだけど、ポジショニングに関しては「個性の集団による集団の個性」というこの形、すごく言い当てていると思う。

ちなみに日本デザインセンターのwebサイト、あれはすごい良い。「デザインの可能性はこの50年に広がった〜」といきなり始まるし、その変遷の説得力を自分達の仕事の変遷で語ってしまえるところもすごい。※今サイト見たら変わってて、中途半端に適応化してんじゃねぇよ…という気持ち(2017年)