CPY

何かを選んだ時に自分はそちらに進むけど、そうでない選択肢には代わりにコピーロボットに続きをやってもらうみたいな。三叉路だったり四叉路だったり、分かれ道でそいつらを送り出して、最後に自分が残った道に行くような。迷った時はそんなイメージだ。各方面に別れてからは暗記しりとりみたいなイメージ。分岐点から辿って暗記できるまで別の選択肢で考えられるところまで考える。常に自分の選択に自信がないというのと、でもだいたいひとつに決めた後は間違えることはないから放っておいても大丈夫という経験からの学びがあるから、どっちかというと他の選択肢のことの方が気になり続けるんだと思う。毎回残る選択肢の方はひとつじゃないし、行動することだけが是の選択じゃない。「if」というより「if not」な時のことをよく思う。

例えば、大学1年のあの頃にあそこにいなかったらその後に続くいろんなことに巡り会わなかっただろうとか、数年後あの人と仲良くしていなかったら今でも知らない世界があったとか、が今の自分にはあったとして。あの頃にあそこにいなかったコピーロボット1号がいて、その後の生活を営んでいる。あの人と関わりをないままのコピーロボット2号が今もどこかで暮らしている。ある時、コピーロボット1号が、僕とは別の文脈であの人と関わりを結果的には持つことになるかもしれない。でもその時に、あの頃のあそこにも居合わせず数年後にあの人との関わりも持たないコピーロボット3号もまた生まれる。

今の自分の生活や職業は誰かが選ばなかった代わりなのかもしれないし、誰かが憧れながらも叶わずに消えた可能性なのかもしれない。っていうか、逆に、今日ここまできた自分もまた誰かの残った他の選択肢をなぞっているのかもしれない。もしくは、誰かが既にこのルート辿っていった跡なんじゃないかって思うこともある。そういう時はだいたいやる気がなくなる。たまたま道ですれ違った同い年くらいの男性や、ネットで見かけた自分と似たような職種の男性。どこかでなにかを違えたら僕は彼らになっていたかもしれない。だいたいあの時あぁしたら系のことを考えている時は、いいことはないしうまくもいっていないんだな。
でもめちゃくちゃポジティブに考えると、それは、決めた方の選択には責任や自信を一応は持ちたいので、そのためには遠回りでも可能性をできるだけ上げておきたいということでもある。

この前帰省した時に言われた。「本当に誰も立ち止まないようなことで立ち止まったり、誰も気にしないようなことを延々と結論も明確なのに考えたりしてるよね」って。自分でもそう思う。ひとつひとつのことを入念にやるタイプとかそういうのとも違う。単に、もう踏み出しても大丈夫なステップなのに次に進むことをいつまでも猶予がある限りはしないで他のこともわざわざ考えているみたいな感じ。僕は学生の頃、いろんな職場への可能性を最後までフラフラして、フラフラした結果いろんな権利を手に入れて、それでさらにフラフラして本当にフラフラしていた。でも最後まで可能性は捨てたくないし。コピーなんて必要ないなら何回もスタートに戻って一個ずつ選択肢を試していきたかったんだと思う。

今でもその時のことを思う。いつまで経ってもなかったことはなかったことにはできないし、過ぎたことを過ぎたことにできない自分はいる。今じゃない今は想像し難いけど、今じゃない今をよく想像してしまうし、それがどうか今より不幸であってほしいと本気で思う。いつか自分が死ぬ時に送り出したコピーロボットを全員集計して合計点で競いたいって思う。