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最近『GINZA』ロゴが変わったのに対し、20~30代くらいの女性読者達が残念って反応で、40~50代のクリエイター達がグッときているのをTwitterで目にした。

(これ自体は嘘ではないが、少々ミスリードな言い回しではある。”クリエイター”という言葉も男女も年齢も。)
そもそも言及してる人がそれほど見受けられなかった中で、どちらが多いとか感想の代表が誰とかをあまり追うつもりはない。ただ、断片的に導き出すのは浅はかかもしれないにしても、度々ぼんやり考えてしまうことがある。作り手の意識があることと読者(受け手)であることは、考察するに直接関係ないのか、またはそれを取り払った意識で眺められるだろうか、という。

(ちなみにロゴ自体変わったというよりも既にあるアセットから定義しなおしたんだと思う。要素が変わっていないのに変わったと思えるのは個人的にはセンスを感じる。フレームのリデザイン俺は好きだ。でも感情的にグッとくるかというと別の話でどうだろうという感じ。)
例えば表面的なデザインや枠組み・体制や取り組みについての自分の基準はなんだろうか。「カッコよくて斬新な方が良いに決まってる」とは一辺倒に言わなくとも、仕事において接する場合にはそれに似た偏りはあると思う。それがパブリックイメージでありがちな括弧付きのデザイナー気質などというものにたとえられれば「じゃあ職業的にそうなんじゃないですかねぇ」ってくらいには思ってしまうかも。そういう自覚もあり、だからこそ理論的根拠も同時に求めることに努める。そうやって論理的にも情熱的にも自信を持ったカッコよさが、別の立場や価値観と対立するとどうだろう。その相手に対して、クライアントという立場は保守的だとか、デザイナーとしての立場は同じなのに価値観が保守的だとなるか。一概に言えず場合によるが、まず自分は革新的だったかという問いからもやりなおす必要がありそうだ。

(話が全く変わるが、俺はMVは演奏しているところ踊っているところがただシンプルに見たいので、変なVFXとかストーリーとか最新技術とかいらないからと思う。そういうところを自分では表現に対しては保守的だと思う。欅坂のMVや曲でいうと『世界には愛しかない』と『二人セゾン』が良いと思うんだけど、デビュー曲は乱数調整の例外として、、今の欅坂イズムがあるとしたらそれ以降のシングルからがビジュアルもコンセプトも方向性が固まったように思える。でも個人的にはハマらなかった。そういった部分的な話でも自分は変化や亜種に対して保守的なんだと思う。)
身の回りのものや事象、世論にどう対峙して反応しているのか。その基準に一貫性や自分なりの納得があるのか省みるうちに、細かい反例はありつつも、自分が作る側の時と享受する側での不一致がまず大きくあるような気がした。そして、自分がいかに状況と相手によって保守/革新をよく考察もせずに、クルクルさせているかも時々思う。

(右や左という事についても無自覚ではいられないわけだが、どちらでもないように努める事自体はできても、どちらでもない状態などはないのではないか。例えば何気ない行動さえも、小中高大を満足に通ってきたり異性に恋愛感情を持つなどの相対的に見れば何らかの思想や価値観に共鳴した結果であるかも。)
つーかそれが何なの、という事になってくるわけなんだが。

何かとの相対性で自分のスタンスを定義して、その不一致な部分が見出だせたはずなのに、結局は「自分が享受する側だったらこういうものが生まれて欲しい」と願って作っているという事実、もしくはそうありたいという希望があり、二律背反しているのかハイブリッドなのか腑に落ちないということだ。単にグラついてるだけなんだろうか。